山菜の日の開催まで、あと二日となった。
なかなか文章が書けずにいたのだが、
昨夜、香港から帰ってきて、ようやく書く気がおきた。
なぜ香港に行っていたかというと、
アジアのベストレストランの表彰式に出席するためである。
まさか、ぼくたち出羽屋が選ばれる日が来るとは、思ってもいなかった。
選ばれたことはもちろん、うれしく、光栄なことである。
だけど、それ以上に、香港で強く心に残ったことがある。
朝の時間の使い方である。
今回、赤い人でお馴染みの康平さんに、香港の街を案内してもらった。
まだ空気のひんやりとした朝、街を歩き、老舗の飲茶の店に入った。
香港の人たちは、朝起きると、家族とお茶を飲み、身体を温める。
食事のはじまりには、温かいスープを飲んで、内側から整える。
なぜお茶なのか、
なぜ身体を温めるのか。
それは、一日をどう生きるかということと、
深くつながっているのだと感じた。
朝のうちから街は動いていて、
顔を合わせて言葉を交わすために、点心という文化がある。
食べることと、話すことが、切り離されていない。
その時間の積み重ねが、
その街のリズムをつくっているのだと思った。
そして今回、はじめて知ったことがある。
「飲茶」というのは、料理の名前ではなく、
もともとは「お茶を飲む時間」のことだということ。
点心は、その時間に添えられる、軽くつまむための食べ物。
つまり、食べることが目的ではなく、
人と時間をともにすることが、中心にある。
ぼくはずっと、
飲茶は“食べるもの”だと思っていた。
でも実際は、
お茶を飲みながら、人と過ごす時間そのものだった。
歴史は、あとから簡単につくれるものではない。
時間をかけて積み重ねてきたものだけが、
その場所の重さになる。
香港の朝の光の中で、そんなことを考えていた。
そしてふと、
出羽屋の朝のことを思い出していた。
まだ静かな館内で、火を入れ、だしを引き、
一日がはじまっていく、あの時間。
ぼくたちの朝にも、
同じように、大切にしたい時間が流れているのだと思った。
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ぼくたちにとって、3月は、新しい一年のはじまりである。
雪の下で眠っていたものが、ふっと動き出す気配がある。
そのたびに、また、はじまると思う。
ただ、今年は少し違っている。
この「山菜の日」は、はじまりでありながら、
この一年の積み重ねが、ひとつ、形になる日のようにも感じている。
この一年を振り返ると、
決して順調なことばかりではなかった。
新しく加わってくれた人もいれば、
それぞれの事情で離れていった人もいる。
うまくいったこともあれば、
思うように進まなかったこともある。
日々の営業に追われながら、
立ち止まって考える余裕もないまま、
ただ目の前のことに向き合い続けてきた時間でもあった。
それでも、その一つひとつが、
いまにつながっているのだと思う。
この山菜の日は、
きれいに整った結果ではなく、
揺れながら進んできた時間そのものが、
そのまま現れている一日なのかもしれない。
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昨年の山菜の日が終わってから、
ぼくたちは、いくつかの場所を巡った。
玄さんとゆにさんが見ている世界を感じたくて、山梨へ。
季節を変えて、函館の工房塒・松浦さんのもとへ。
山形を見つめ直すために、鶴岡へ。
そのほかにも、さまざまな土地を巡らせてもらった。
それぞれの場所に、それぞれの時間が流れていた。
その一つひとつに触れるたび、
ぼくたちのやりたいことの輪郭が
少しずつ見えてきた気がしている。
胸の奥であたためてきた。
まだはっきりと形にできているわけではない。
けれど、日々の中で、確かにそれを感じる瞬間が増えてきた。
朝、山から届いた山菜を仕分けしながら、
今の山の空気を嗅げること。
届いた器を開けて、
作り手の温度が伝わること。
マルシェの出店者さんたちが、
自分の店のこと以上に、この日をよくしようと動いてくれていること。
スタッフそれぞれが、
自分の役割を考えながら、前に進もうとしていること。
そういう一つひとつが、
どこかでつながっている。
それは仕組みというより、
関わってくれている人たちの、
積み重なってきた時間そのものなのだと思う。
名前をつけるなら、それを「出羽屋村」と呼んでいる。
特別なことをしているわけではない。
それぞれの場所で、それぞれの暮らしや仕事を続けている人たちが、
ゆるやかにつながっている。
その重なりの中に、出羽屋という場所がある。
ぼくたちは、その一部を預かっているだけなのだと思う。
マルシェがあり、ワークショップがあり、
食を通した学びがあり、そして音楽がある。
にぎやかな一日になると思う。
けれど、ぼくにとっては、
この一年の積み重ねが、
ようやく目に見える日のように感じている。
それぞれの場所にいた人たちの時間が、
この日に重なっていく。
これまで出羽屋を支えてくれた人たちが、
それぞれの場所から、この日のために集まってきてくれる。
そのとき、
思い描いていた「出羽屋村」が
少しだけ、形になるのかもしれない。
春は、はじまりである。
でも同時に、
これまでの時間が、次へとつながっていく季節でもある。
まだ見えなかったものが、
少しずつ、動き出す。
山菜の日が、訪れてくれる人にとっても、
何かがはじまる、やさしいきっかけになればうれしい。
