今年の冬は、雪が多かった。
きっと毎年、同じことを思い、同じ言葉を口にしているはずなのに、
それでもやっぱり、今年の雪は多い、と感じてしまう。
人間は、なんて都合のいい生きものなのだろう。
去年のたいへんだった雪のことは、きれいさっぱり忘れて、
また同じ目にあってから、ようやく冬の厳しさを思い出す。
雪かきで重くなった腕や、
朝、戸を開けたときの白さに、
そうだった、ここは雪国だった、と体が先に思い出す。
二月に入ると、日が少しずつ長くなってきた。
夕方、気づけばまだ明るく、
それだけで、春が近づいているような気がしてくる。
空気の中にも、かすかな変化がある。
けれど、あたりを見渡せば、
まだまだ冬の名残ばかりだ。
いや、これからが本番だと言わんばかりに、
雪は深く、重く、そこにある。
あと一か月もすれば、
早い山菜が顔を出す。
そう思うと、
今この雪の下で、
どんなふうに春を待っているのだろうと、
つい想像してしまう。
|山菜の日をつくった理由
ぼくが「山菜の日」をつくろうと決めたのは、
十三年前のことだった。
当時も、雪は重く、
採れる量も、状態も、
そのときにならなければわからない。
不確かな春だった。
それでも、この日をつくりたいと思ったのは、
山菜が、あまりにも
この土地らしい存在だと感じたからだ。
今でこそ、道路は整い、
住まいも便利になり、
食料や生活に必要なものを手に入れることは、
それほど難しくなくなった。
けれど、少し前まで、
この雪国で暮らすということは、
冬のあいだ、外に出ることすらままならない日々を
意味していたはずだ。
雪に閉ざされた家の中で、
人々はどんな気持ちで春を待っていたのだろう。
そんなことを考えることがある。
春に採れた山菜。
夏に獲れた川魚。
秋に採れたきのこ。
それらを上手に保存し、
冬を越えるための知恵と工夫を、
欠かすことはできなかったに違いない。
山菜を干し、
きのこを塩に漬け、
季節の恵みを、時間の中に閉じ込める。
春が来ることを、
どれほど待ち望んでいたのだろう。
ぼくたちが今、
山菜の干し物や、
きのこの塩漬けを、
料理として、味として表現できるのは、
先人たちの並々ならぬ知恵と工夫が、
確かにそこに積み重なっているからだ。
それを思うと、
山菜は、ただの食材ではなく、
この土地で生き抜くための
時間そのもののようにも感じられる。
だからこそ、
春のおとずれを、
みんなで祝う日があってもいい。
効率がいいわけでもなく、
毎年、思いどおりになるわけでもないけれど、
それでもなお、
この時代に「山菜の日」をつくりたかった。
雪の下から芽吹くものを待ち、
その年の春を、
そのまま受け取る。
そんな時間を、
もう一度、みんなで共有したかったのだと思う。
|2026年の山菜の日
そして今年の「山菜の日」は、
ひとつの催しにまとめるというより、
春の入り口に、いくつかの風景を
そっと置くような一日にしたいと思っている。
雪解けがぐんと進むころ、
TRASでマルシェがひらかれる。
ぼくたちに関わりの深い料理人や作家さんのほか、
山の近くで暮らす人たちの手を経たものが並ぶ。
それぞれに理由のあるものばかりだ。
誰かが育て、
誰かがつくり、
誰かが運んできたもの。
顔の見える距離で手渡されるそのやりとりは、
それだけで、春らしいと思う。
いや、出羽屋らしいと思う。
そのすぐそばでは、「弁当の日」がひらかれる。
この地に暮らす子どもたちが
キッチンに立ち、包丁をにぎり、
自分の手でひとつの箱にごちそうをおさめる。
同じ弁当は、きっと二度とできない。
でも、それでいい。
この日には、それがよく似合う。
夕暮れ時には、「みどり」による演奏会。
のびやかな歌声と、やさしいギターの音色が、
凝り固まったぼくたちの心を、
少しずつほぐしてくれる。
何かを盛り上げるためではなく、
その場に流れる時間を、
そっとなぞるための音になればいい。
山菜の日は、
春が来たことを、
それぞれのやり方で受け取る日だ。
マルシェがあり、
音があり、
弁当を作る子どもたちがいる。
それぞれは、ゆるやかにつながりながら、
同じ空気の中で、
同じ季節を味わっている。
そんな一日になればいいと思っている。
山菜の日 2026|概要
○日時
2026年3月29日(日)
10:30〜18:00
○内容
・弁当の日|10:30〜13:00
・マルシェ|11:00〜15:00
・演奏会|16:00〜17:30
○会場
にしかわイノベーションハブTRAS
あいべ ほか
きっと毎年、同じことを思い、同じ言葉を口にしているはずなのに、
それでもやっぱり、今年の雪は多い、と感じてしまう。
人間は、なんて都合のいい生きものなのだろう。
去年のたいへんだった雪のことは、きれいさっぱり忘れて、
また同じ目にあってから、ようやく冬の厳しさを思い出す。
雪かきで重くなった腕や、
朝、戸を開けたときの白さに、
そうだった、ここは雪国だった、と体が先に思い出す。
二月に入ると、日が少しずつ長くなってきた。
夕方、気づけばまだ明るく、
それだけで、春が近づいているような気がしてくる。
空気の中にも、かすかな変化がある。
けれど、あたりを見渡せば、
まだまだ冬の名残ばかりだ。
いや、これからが本番だと言わんばかりに、
雪は深く、重く、そこにある。
あと一か月もすれば、
早い山菜が顔を出す。
そう思うと、
今この雪の下で、
どんなふうに春を待っているのだろうと、
つい想像してしまう。
|山菜の日をつくった理由
ぼくが「山菜の日」をつくろうと決めたのは、
十三年前のことだった。
当時も、雪は重く、
採れる量も、状態も、
そのときにならなければわからない。
不確かな春だった。
それでも、この日をつくりたいと思ったのは、
山菜が、あまりにも
この土地らしい存在だと感じたからだ。
今でこそ、道路は整い、
住まいも便利になり、
食料や生活に必要なものを手に入れることは、
それほど難しくなくなった。
けれど、少し前まで、
この雪国で暮らすということは、
冬のあいだ、外に出ることすらままならない日々を
意味していたはずだ。
雪に閉ざされた家の中で、
人々はどんな気持ちで春を待っていたのだろう。
そんなことを考えることがある。
春に採れた山菜。
夏に獲れた川魚。
秋に採れたきのこ。
それらを上手に保存し、
冬を越えるための知恵と工夫を、
欠かすことはできなかったに違いない。
山菜を干し、
きのこを塩に漬け、
季節の恵みを、時間の中に閉じ込める。
春が来ることを、
どれほど待ち望んでいたのだろう。
ぼくたちが今、
山菜の干し物や、
きのこの塩漬けを、
料理として、味として表現できるのは、
先人たちの並々ならぬ知恵と工夫が、
確かにそこに積み重なっているからだ。
それを思うと、
山菜は、ただの食材ではなく、
この土地で生き抜くための
時間そのもののようにも感じられる。
だからこそ、
春のおとずれを、
みんなで祝う日があってもいい。
効率がいいわけでもなく、
毎年、思いどおりになるわけでもないけれど、
それでもなお、
この時代に「山菜の日」をつくりたかった。
雪の下から芽吹くものを待ち、
その年の春を、
そのまま受け取る。
そんな時間を、
もう一度、みんなで共有したかったのだと思う。
|2026年の山菜の日
そして今年の「山菜の日」は、
ひとつの催しにまとめるというより、
春の入り口に、いくつかの風景を
そっと置くような一日にしたいと思っている。
雪解けがぐんと進むころ、
TRASでマルシェがひらかれる。
ぼくたちに関わりの深い料理人や作家さんのほか、
山の近くで暮らす人たちの手を経たものが並ぶ。
それぞれに理由のあるものばかりだ。
誰かが育て、
誰かがつくり、
誰かが運んできたもの。
顔の見える距離で手渡されるそのやりとりは、
それだけで、春らしいと思う。
いや、出羽屋らしいと思う。
そのすぐそばでは、「弁当の日」がひらかれる。
この地に暮らす子どもたちが
キッチンに立ち、包丁をにぎり、
自分の手でひとつの箱にごちそうをおさめる。
同じ弁当は、きっと二度とできない。
でも、それでいい。
この日には、それがよく似合う。
夕暮れ時には、「みどり」による演奏会。
のびやかな歌声と、やさしいギターの音色が、
凝り固まったぼくたちの心を、
少しずつほぐしてくれる。
何かを盛り上げるためではなく、
その場に流れる時間を、
そっとなぞるための音になればいい。
山菜の日は、
春が来たことを、
それぞれのやり方で受け取る日だ。
マルシェがあり、
音があり、
弁当を作る子どもたちがいる。
それぞれは、ゆるやかにつながりながら、
同じ空気の中で、
同じ季節を味わっている。
そんな一日になればいいと思っている。
山菜の日 2026|概要
○日時
2026年3月29日(日)
10:30〜18:00
○内容
・弁当の日|10:30〜13:00
・マルシェ|11:00〜15:00
・演奏会|16:00〜17:30
○会場
にしかわイノベーションハブTRAS
あいべ ほか
